じぶんと出逢うたのしみ

自分のことって本当はよく知らない。どんなことで何を感じてますか?

自分を責めない毎日

ここ三日、責めないでいることを意識してます。

どんなに責めるべきと思えるようなことでも責めないという立ち位置を選ぶ。

あの人へのあのやり方はやっぱりマズかったかな?こっちから連絡なんてしなきゃよかった。。。

と、なって、

責めない責めない。。。


すると、今までならどんどん出てきた後悔も止んで行く。


そんなことをしてると、三日目にして、

人のことも責めなくなりはじめてきた。




責める。。。というと不満ばかりかと思いきや、

あの人とのあのこと。。。について巡り始める頭の中の話が薄れていく。



今日あったあのことを思い出し、あーでもないこうでもないとやったり、
それをしないまでも、その場面でどんな態度や気持ちでいたのか…とか、そんなことも責めないでいると、

なんとも安らかな時が少しまた少し増えていくんですね。



犬を見ながら、責めない責めない。。。と思って見てみると穏やかに寝てるそのまんまの安からさが伝わってくる。


可愛いとか、いう一見いい思いのように思える思いも責めてることだったのかも知れません。



責めるというより、本当の姿を見ないでいたんだな。。。という感じでしょうか。


心配やら、ああかな?こうかな?というほぼ無意識に出てきてる思いも、それそのものを見てるわけではなかった。。。というのに気づくんですね。


そうなってくると、現実というのは考えが浮かばなければとても優しくいつも、考えより、現実は優しい。。。


そんなわけない!という状況ででも、


やはり現実の方が、考えよりずっと優しい。


そう。。。苦しんでいるのは何に対してかというと考え、思いに苦しんでいるのだというのが体験としてわかってくる。


そりゃ、もう芋ズル式に、あっという間に出てくる思い。。。

それを責めない。。。

そういう思いがあることも責めない。。。

状況も責めない。。。




頭でこれを理解しようとするとき、とても自分には無理だと感じるというより、そう判断する。

でも、この状況はやっぱり私を苦しめるよ!というような時にも、

責めない。。。と、責めないということは癖になるぐらい楽にしてくれることなんだと体験が理解させてくれる。



彼が私を見ないことで、私を責めない、彼も責めない。


ぎゅーっと硬くなっていた何かがほわっと緩む。


そして、現実がそうであるならば、それは、
頭の中の、私を見るべきという思いや、
見て欲しいのにかなわないという思いより、
ずっと優しい。


そこで初めて、私は本当に彼に出会えることになる。


彼が私を見ないということが、
観念の中では悲しく辛いというものになっている。


でもそれは実はそんなに恐ろしいことではないというのを体験が理解させてくれる。 


人に怪訝に思われることが、
観念の中では怖い孤独というものになっていても、
現実のそれはそれほど避けるべきことでもなく、孤独もそれほど怖いものでもない。


まあ、この辺までくると、垣間見るぐらいの体験をした。。。ってぐらいだけど、
その芽はとても素晴らしいことな予感がする。



願い。。。根が、我の、意図。

そして、意図。。。本当と繋がる糸。


願いは、ないから欲しい。
意図は、糸のように繋がっていることを知ってる。



なーんちゃって。www



今日を責めずに、自分を好きだと思える言葉を眠りにつく前に唱える。


今日も恙無く1日を終わることが出来ました。ありがとうございます。。。と。



何故か、自分のことを大好きと思える言葉。


好きだとか、愛してるとか、アファしてないのに。


あー、好きなだな〜って。



責めない毎日は楽しくて、1日限定のつもりが癖になったよ。楽になるから。



一日中、どれほど責めて、これではない!と言い続けているか…に、愕然として、
疲れるわけだ。。。とも理解出来る。