じぶんと出逢うたのしみ

自分のことって本当はよく知らない。どんなことで何を感じてますか?

許容量とか

周りに野良猫が居なくなった

 

以前は確かに

庭に糞をされて

ぎぇー!となることもあったけど

野良猫の姿は

自由を感じさせてくれて

ホッとしていた

野良猫を見てるのが

好きだった

 

自分の家の庭を

荒らされること

文句を言っても仕方ない相手であること

 

だけど

以前はそんな野良猫の存在を

許容していたはずだと思う

地域で

家庭で

愚痴は言っても

彼らの存在を

当たり前に認めていたと思う

 

彼らには彼らの

生きる世界があって

それが私たち人間と

被ることは当たり前であって

生きとし生けるもの

それぞれの生きる世界や

生活があるのを

どこかで知っていたはず

 

野良猫と共存していたはず

 

野良猫の文句だけを言う人の話を聞きながら

気持ちはとてもわかるが

彼らの生活圏に

自分が居てしまっているかも知れない

とも思う

 

とてもジレンマを感じるのは

猫や犬を

生殖出来ないように

手術すること

 

うちの犬も保護施設から

貰い受けたので

去勢をしているし

チップも入っている

 

仕方ないこととは思いながらも

彼らを管理し

彼らの持つ

生まれながらの権利である

生殖機能を奪う権利が

私たちにあるのだろうか?

 

天に背いたことなのではないかと

いたたまれない気持ちになる

 

もちろん

増えすぎることへの

対処は必要なのかも知れない

 

でも。。。

それは人間の世界でも

もう既に起き始めていることで

増えたら減らす

増えないように管理される

それについては

怒りを覚えながら

あってはならないと思いながら

実は既に

自分達も他の命を

管理することを

覚えさせられてしまっている

 

誰かにやってしまっていることは

案外すんなり受け入れ易くなって

しまうものだと聞いたことがある

 

それがもし

自分や自分の家族に対しただとしたら

どう感じるのだろう

 

私如きには答えの出ないジレンマ

 

他の命を自分の所有物のように

扱い始めていることに

何か間違えているという気持ちになる

 

許容量と書いたけど

許容する立場だと思うことすら

おかしな話だとも感じる

 

でも

猫が自由に歩いたり

塀の上で寝ている姿が

なくなったことで

自分の許容量がとても狭くなっていくような

情けない気持ちになる。。。

 

野鳥も最近は

とても少なくなった

 

彼らは

ずっと人間のすること

ただ黙って

許容してくれて来たのじゃないかと思うと

自分がとても傲慢に思えて 

情けなくなる

 

山も川も

虫達も

人間に文句を言って来たことはない

 

この異常な暑さも

自分達の巻いた種の結果

 

自然が人間を

許容してくれなくなる日が

来るかも知れないなんて

考えたりする

 

望みとは

多分、心地よさを感じたいという

気持ちなのではないかと思う

 

だとしたら

本当に心地よいのは

どんな状態なのだろう

 

満たされることもない

利便を求めて

暇を何かで埋めることに

必死になっているようで

心地よいとは言えないなと

感じたりする

 

綺麗なお月様を眺める時

澄んだ川の音を聞く時

鳥のさえずりで目を覚ます時

子供の話にちゃんと耳を肩向ける時

 

そんな時が

とても満たされている

 

利便がいけないとは思わないけれど

ここまでという線をもうけられるのが

人間の素晴らしさなのかも知れない

 

これで十分と線をひける理性が

人間にはあるはずだから